日本地図とは
私達は普段、生活の中で当たり前のように地図を使っていますが、もし地図がなかったら日常生活に大きな支障をきたすことは容易に想像がつきます。例えば、目的地までの道順や周辺施設を調べたり、地形を把握したりする上で地図は欠かせませんし、見知らぬ土地へ旅をする際にも地図があれば安心です。しかし、現代ほど交通手段や情報通信網が発展していない過去の時代には、地図を作るのは大変なことでした。
今回は、日本地図の歴史を語るには欠かせない「伊能忠敬」(いのうただたか)と「長久保赤水」(ながくぼせきすい)の2人を中心に、日本地図がどのように作られてきたのかを紐解いていきます。
日本地図について
日本地図とは、日本の領土を示した地図のことです。国土交通省の特別機関である「国土地理院」が、国際的な基準にしたがって日本の正確な位置を定めるとともに、様々な角度から日本を測量。道路や建物といった基本的な情報を整備した「電子基本地図」そして電子基本地図に活断層をはじめとした情報を追加した「主題図」という地図を作成しています。これらの地図は観光マップやハザードマップ、地図アプリなどのもととなるのです。
日本地図の歴史
日本地図の歴史をたどると、国土地理院が地図を作成するようになるよりずっと昔から多くの日本地図が作られてきたことが分かります。日本地図を作った伊能忠敬は歴史の授業に出てくるほど有名ですが、実はそれ以前にも日本地図を作成した人物は存在していました。自動車や電車といった交通手段もなく、情報を収集する手段も乏しい時代、日本地図はどのようにして作られ、どのような内容が描かれていたのでしょうか。
日本最古の地図

実物が残っている中で最も古い日本地図と言われているのは、「仁和寺」(にんなじ:京都市右京区)が所蔵する「行基図」(ぎょうきず)。行基図は奈良時代の僧「行基」(ぎょうき)が作成したと伝わる日本地図で、原図の実物は残っていませんが、模写した地図は平安時代から江戸時代まで普及していたとされています。1305年(嘉元3年)の銘がある仁和寺所蔵の行基図には、紀伊半島や房総半島などは描かれているものの、西日本が描かれていません。ごく単純な形状をした60余の国々が描かれた、比較的簡素な地図だったことが分かっています。また、2018年(平成30年)には、14世紀半頃の室町時代に作成されたと見られる「日本扶桑国之図」(にほんふそうこくのず)が新たに発見されました。旧国68箇所が描かれたこの日本地図の欄外には、国や郡の名前に加え、人口や寺の数、田畑の面積までが記されています。
日本地図の変遷

江戸時代に入ると、江戸幕府が各藩に命じて「国絵図」(くにえず)を作らせるようになりました。そして、8代将軍・徳川吉宗の命を受けて数学者「建部賢弘」(たけべかたひろ)が国絵図を統合した「享保日本総図」(きょうほうにほんそうず)を作成。それに続いて、長久保赤水、伊能忠敬も日本地図の作成に乗り出します。
明治に入ると、イギリス人やフランス人から指導を受けながら、政府機関を中心に測量と地図制作が行われるようになりました。当時の内務省では、三角測量(三角形の原理を用いた測量方法)を採用。海軍でも、1871年(明治4年)に創設された水路局が、沿岸や港湾、近海の海図を作成しています。
第二次世界大戦後は、建設庁(現在の国土交通省)の国土地理院や海上保安庁の水路部(現在の海洋情報部)を中心に地図作成が進められるようになりました。
日本地図を作った人物
伊能忠敬は日本各地をめぐりながら測量を行い、地図を作ったとして知られる人物。しかし、その40年以上も前、長久保赤水が緯線・経線(実際には方角線ですが、実質経線であると言われる)の入った日本地図を発行していました。伊能忠敬の作った地図、通称「伊能図」は政府が極秘として扱っていた地図。一方、長久保赤水が作った「赤水図」(せきすいず)は広く庶民に使われていたことが分かっています。
日本地図を作ったことで知られるこの2人は、一体どのような人物で、どのような日本地図を作製したのでしょうか。
日本地図を完成させた伊能忠敬

日本地図を完成させた人物として有名な伊能忠敬は、上総国(かずさのくに:現在の千葉県中部)の出身。小関村(こぜきむら・現在の千葉県九十九里町)の名主「小関五郎左衛門家」の「小関貞恒」(こぜきさだつね)の第3子として生まれました。幼名は三治郎です。
三治郎は6歳のときに母と死別。婿養子だった父と兄姉は、幼い三治郎を残して父の実家へ移ってしまいました。三治郎は読み書き算盤を小関家で学ぶために残されたとの説がありますが、その後10~17歳の間は父の実家へ移り、父とともに暮らします。17歳になると名を「忠敬」と改め、下総国佐原(しもうさのくにさはら:現在の千葉県香取市)の酒造家へ婿養子に入り、事業者として成功を収めました。
49歳で隠居した伊能忠敬は、50歳で勉強のために江戸へ移り、天文学・暦学を学びはじめます。その勉強をきっかけにチームを編成し、地図作りを開始。15年以上にわたって日本全土を測量して歩きました。測量のための旅は10回と言われていて、そのうち伊能忠敬は実に9回も参加しています。

すべての測量を終え、「蝦夷」(えぞ:現在の北海道)の測量情報を受け取った伊能忠敬は1818年(文政元年)に地図の完成を待たず逝去。享年73歳でした。跡を継いだ門弟の手によって「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽんえんかいよちぜんず)、通称「伊能図」が完成したのはその3年後、1821年(文政4年)のことです。
伊能忠敬の日本地図の測量方法と道具
土地の測量においては、距離や角度など を調べる必要があります。そのため、伊能忠敬は様々な道具を使っていました。
- 梵天(ぼんてん):先端に短冊状の紙を数枚吊るした竹の竿
- 間縄(けんなわ):1間ごとに目盛りを付けた測量用の縄
- 鉄鎖(てっさ):測量用の鎖。金属でできているため、より正確に距離を測ることができる
- 間棹(けんざお):岩場など、間縄・鉄鎖を当てにくい場所で使用した竹竿
- 量程車(りょうていしゃ):引いて歩くことにより車輪の回転数で距離が計算される道具で、間縄を使えない場所で使用する
- 杖先羅針盤(つえさきらしんばん):方角を測る道具で、杖が傾いても水平になる工夫がされている
- 象限儀(しょうげんぎ):天体観測を行う道具。天文学は緯度の測定に使用した

伊能忠敬は、曲線状の地形も直線の連続に分解し、梵天を曲がり角に立てながら測っていました。直線の長さと角度を測るこの測量方法は、「導線法」と呼ばれています。
伊能忠敬のすごいエピソードと名言
伊能忠敬の生涯から学ぶことができるのは、「いくつになっても新しいことに挑戦できる」ということです。49歳で隠居したのはいわゆる定年退職ですから、一線を退いたあとに再び勉強をして偉業を成し遂げたということになります。江戸に移った伊能忠敬は、幕府天文方の「高橋至時」(たかはしよしとき)を天文学の師としました。当時の高橋至時は弱冠31歳。勉学のために自分よりも20歳近く若い相手に教えを請う姿勢も見習いたい点です。
伊能忠敬は婿入りした伊能家で商才を発揮し、隠居したときには3万両(現在の30~60億円相当)にものぼる財産を築いていたと言われています。資産が十分にあったことから、伊能忠敬は大金を投じて自宅に天文台を構築。このエピソードからは、彼が天文学にかなりの情熱を傾けていたことがうかがえます。また、測量の当初、ほとんどの経費は伊能忠敬の私財で賄われていました。
伊能忠敬が測量のために歩いた距離は約4万km。高齢でありながら、世界一周と同等の距離を歩いていたと言うのですから驚きです。健康だったことも、日本全国の測量を実現できた要因のひとつと推測されます。
伊能忠敬記念館と旧宅
伊能忠敬ゆかりの地である千葉県香取市には「伊能忠敬記念館」と伊能忠敬の旧宅が残されています。
伊能忠敬の人生を年代順に追うことができる伊能忠敬記念館は、伊能忠敬が日本地図を完成させるまでの道のりと、地図の世界に触れられる観光スポットです。
一方、国の指定史跡になっている「伊能忠敬旧宅」は、伊能忠敬が17~50歳までを過ごした家。母屋や醸造業を営んでいた店舗なども残っており、当時の面影が偲ばれます。伊能忠敬旧宅は小野川に面しており、川をはさんで伊能忠敬記念館があるので、両方訪れてみると伊能忠敬という人物をより深く知ることができるのではないでしょうか。
日本地図を初めて作った長久保赤水

伊能忠敬より前に日本地図を作っていた人物が長久保赤水です。伊能忠敬が測量によって日本地図を作ったのに対し、長久保赤水の日本地図は情報収集によって作られました。
長久保赤水は、江戸時代中期の地理学者であり漢学者。1717年(享保2年)に常陸国多賀郡赤浜村(ひたちのくにたがぐんあかはまむら:現在の茨城県高萩市)で生まれました。学問を好んでいた長久保赤水は、17歳頃から漢字や漢詩を学び、さらに25歳頃、儒学者の「名越南渓」(なごえなんけい)に師事。朱子学・漢詩文なども身に付けます。同時に、地図を作るのに欠かせない天文学については、天文家の「小池友賢」(こいけゆうけん)から学んでいきました。
長久保赤水は、1774年(安永3年)には「日本輿地路程全図」(にほんよちろていぜんず)、1779年(安永8年)にはこれを修正した「改正日本輿地路程全図」(かいせいにほんよちろていぜんず)を作成。その後は、改正日本輿地路程全図の普及に努めつつ、世界地図や清国地図の作成も行っていきます。なお、2020年(令和2年)9月、地図や文書といった長久保赤水関連資料が国の重要文化財に指定されました。
伊能忠敬より先に「改正日本輿地路程全図」を発行

長久保赤水が作った「改正日本輿地路程全図」は、細部まで情報が書かれた地図であり、広く庶民に広がって、ベストセラーにもなりました。通称「赤水図」として知られるこの地図は、緯線と経線(方角線)が記されていることが大きな特徴。文献調査と伝聞をもとにして作成した地図にもかかわらず、その精度は実測した伊能忠敬の地図と比較しても遜色ありません。
改正日本輿地路程全図は、それまでの日本地図と比較して精度の高さや地名の豊富さが格別でした。のちに大日本沿海輿地全図を作成する伊能忠敬が赤水図を携帯していたことも記録に残っています。
長久保赤水は世界地図も作った先駆者
長久保赤水が作ったのは日本地図だけではありません。世界地図の作成も行っていました。長久保赤水の「改正地球万国全図」(かいせいちきゅうばんこくぜんず)は、イタリア出身の「マテオ・リッチ」が作成した「坤輿萬国全図」(こんよばんこくぜんず)の系統。卵形に描かれた地球が特徴です。
改正地球万国全図は、1720年(享保5年)に原目貞清が作成した「輿地図」(よちず:世界地図のこと)をベースとしているものの、さらに蝦夷の調査結果を反映している点が異なっています。
長久保赤水は、江戸時代後期の探検家「最上徳内」(もがみとくない)らが1784年(天明4年)から翌年の1785年(天明5年)にかけて行った蝦夷の調査結果を改正地球万国全図に反映。それによって、それまでより正確な世界地図を作成したのです。
長久保赤水生家と高萩市歴史民俗資料館
日本地図も世界地図も作った長久保赤水とは、どのような人物だったのでしょうか。歴史好きの心をくすぐる観光スポットが、長久保赤水の生まれた茨城県高萩市にあります。
そのひとつが、長久保赤水についての様々な資料が収められている「高萩市歴史民俗資料館」です。改正日本輿地路程全図は初版から複数の版が展示されており、変遷を見ることが可能。長久保赤水についてもっと知りたい方は、ぜひ高萩市歴史民俗資料館を訪れてみることをおすすめします。
| 施設名 | 高萩市歴史民俗資料館 |
|---|---|
| 所在地 | 茨城県高萩市高萩8-1 |
| 電話番号 | 0293−23−7229 |
| アクセス | 「高萩駅」から 徒歩10分 |
「日本地図の歴史」まとめ
測量による日本地図を初めて作った伊能忠敬も、それ以前に情報を集めて精度の高い日本地図を作った長久保赤水も、日本地図の歴史に不可欠の人物だったことは言うに及びません。ぜひ日本地図ゆかりの地を訪れ、当時の人々の日本地図にかける情熱を肌で感じてみてはいかがでしょうか。
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